【掌中の珠 最終章1】
その日、いつものように先生の所に行こうとした花は、女官に止められた。
「どうしてですか?今日はお休みって先生から何か伝言でも?」
首をかしげる花に、女官たちは困ったように顔を見合わせた。
「私たちもよくわからないんです。ただ何かあったようで…」
どこか不安げにそういった女官を、もう一人が肘でつついて「しっ」と黙らせる。その深刻な表情を見て、花は少し不安になった。
「何があったんですか?まさか孟徳さんに何か…」
「いえ!丞相は大丈夫だったようです。ご安心ください。寸前で気づかれて…」
花は青ざめた。同時に女官はしまったと口を押える。
「気づいたって、何があったんですか?けがは!?」
詰め寄る花に女官たちは頭を何度も下げ、花の追及を避けるように顔をそむける。
「申し訳ありません。本当に丞相はお変わりないようです。あの、私たちは安心させるように言われていたのに、本当に申し訳ありません」
女官は頭を何度も下げながら部屋を出ていった。「そういうわけなので、お部屋の外には見張りがおります。今日は一日部屋にいてほしいとの丞相からの言葉ですので、花様、こちらでお過ごしください。飲み物や食べ物など後程お持ちしますね」
逃げるように出て行ってしまった女官たちの背後で花は疑問と不安で頭をいっぱいにしながら一人で部屋の中をうろうろする。
こんな気持ちのまま待ってるなんてできないよ。
廊下へ続く扉を少し開けてみると、顔見知りになった兵士が二人部屋の前に立っていた。目が合い軽く会釈され、花はごまかすように笑うとそのまま扉を元通りに閉めて部屋の中で腕を組む。
これでこっそり部屋を抜け出したらあの兵士さんたちに迷惑がかかるんだよね。……まあ抜け出せそうにもないんだけど。
そして庭に面した窓から下を見てみる。
…高くて降りられないし、それにやっぱり逃げ出すとあの兵士さん、ひょっとしたら罰として殺されちゃったりしちゃうかも。
この世界は花がもといた世界と違って人の命が本当に軽いのだ。
しばらく考えて、花は「よし!」と覚悟を決めた。
下を向いていた顔をグイっとあげて、廊下につながる扉に手をかけ勢いよく開け、そのまま大股で廊下へと歩き出す。
「お、奥方様!」「部屋を出てはいけません!」「丞相に言われております」慌てて止める兵士に花は言った。
「私は言われてません」
ん?と顔を見合わせる兵士に、花はもう一度言った。「私は孟徳さん…丞相からなにも言われてないんです。なので私は私が思うように行動しても問題ないと思います」
「いえ、しかし我々は……」
「なら、私はこれから丞相に会いに行くのでついてきてください。それで丞相から部屋にいるように言われたら、おとなしく部屋にいるようにします」
兵士たちはまた顔を見合わせた。丞相の命令と花の命令、どちらを聞くかといえば当然丞相だが、花の希望をすべて無下にして花が悲しめば当然丞相からお叱りが来るという難しい立場だ。
が、花はもう歩き出していた。兵士たちは迷いながらも花についてあるきだした。
孟徳さん、何があったんだろう。寸前で気づいたって言ってたよね。ってことは、何か事故とか事件的な…。
まさかまた暗殺とか??
心配のあまり小走りで丞相の執務室に向かっていた花は、途中で先生との勉強をしていた部屋を通りかかった。
先生、もしかしたら私が来るのを待ってたりして?
そうだったら申し訳ないと思い部屋の前で立ち止まり、扉を開けてのぞき込む。
先生はいなかった。
丞相の命令は絶対だから、ちゃんと先生には誰かが知らせてくれたんだよね、多分。
花が扉を閉めようとすると、後ろから来た兵士が言った。
「詮議は別の部屋でやっていると思いますよ」
「詮議?」
花がそう聞くと、兵士はうなずく。
「はい。今回は相手が相手ですので、いきなり裸にして拷問部屋に送るわけにはいかず、丞相の執務室での詮議ときいております」
「え?えっと、誰が、ですか?先生?」
花の言葉に兵士の目が泳いだ。「……聞いていらっしゃらないので?」
「何をですか?」
兵士たちの表情がみるみるうちに真顔になり、今度は貝のように口を閉ざしてしまった。「何も知りません」「部屋に戻りましょう」という兵士たちにらちが明かず、花は「もういいです!直接孟徳さんに聞いてきます!」と言うなり執務室に向かって走り出した。
先生が何かしたの?孟徳さんに?
先生のお父さんは地元で孟徳さんに反発してたって聞いてたけど、なんで先生が?
あの兄弟がくれたナツメを見ながら食べ方を相談したり笑ったりしたのは、まだほんの一月ほど前のことだ。その間に先生にとくにかわったところはなかった。きっと何かの誤解とか誰かに罪を着せられたとかに違いない。
急いで行って私から話さないと…!
「お、お待ちください!」
兵士の一人が花を追い抜き通せんぼをした。
「お話します。私が知っていることをお話ししますので、今丞相の執務室に行くことはおやめください。奥方様の立場がもっと悪くなります」
「私の立場、ですか?」
兵士はまだ迷っているようだったが、しぶしぶとうなずいた。
観念した兵士が話してくれた内容を聞いて、花は茫然と立ち尽くした。
「先生が……どうして…?」
「毒物は厳重に確認されて城には持ち込めないようになっているんですが、どうやってか手に入れたようで。さらに厨房には料理人や給仕のもの以外は入れない決まりではあったんですが……」
昨晩遅く、孟徳が会議をしていると花からだと軽食がとどいたそうだ。
花は兵士を見上げた。「私、昨日は孟徳さんの食事なんて作ってない……」
体の奥から抑えようがなく震えがおこってくるのを、花は感じていた。
「丞相もいつもの奥方様が作られるものではないように感じて、召し上がる前に女官に奥方様に確かめに行かせようとしたと聞いています。その前に、味見係を読んで一口食べさせてみたところすぐに吐き出し、毒物が入っていると。」
ここまで話せば同じと思ったのか、もう一人の兵士も話に加わる。
「ただ、その味見係は毒物に精通していたためわかったようで、普通の人間でしたらわからないように巧妙に味付けされていたそうです。通常、丞相の食事はすべて事前に味見係を通すのですが、奥方様の手作りのものだけは……」
花の顔から血の気が引いていく。
「味見係の人なしで食べてもらってました」
兵士がうなずく。
「あの教師はそれを知っていたんでしょうな」
そうだ、あのナツメの時に先生に話した。あの廊下。まだ少し寒いなか日差しだけがあたたかかった。廊下のわきにはきれいに手入れされた庭園があって、そこに鳥がたくさん来てて鳴いてたっけ…
「で、でもそれだけでなんておかしいです。私が作ったものを孟徳さんが味見係なしで食べるなんて、厨房周りの人たちはみんな知ってたし…」
「奥方様が絡んでいるので丞相がたいそうお怒りになりまして、すぐさま厨房の者たち全員が呼ばれたんです。そこで…」
昨晩遅く、花の先生が厨房を出るところを給仕の一人が見ていたと証言があった。後片付けも終わり人もほとんどいなくなっていたのにおかしいなと思ったそうだ。
「それで、その奥方様の教師を呼んで聞いたところ…」
詰問された先生は罪をあっさりと認めた。
「うそ…」
だって先生は、私からみた孟徳さんは自分がこれまで思っていなかった孟徳さんだって、そばにいるのは大変だと思うけどがんばってって言ってくれて……
友達…はちょっとまだかもしれないけど、でもいつかそうなれたらいいなって。
孟徳さんのことも日本の弟のことも話したのに。
「だ、誰かに罠にはめられたんじゃないでしょうか?もしくは誰かをかばってるとか」
必死につめよる花に、兵士は顔を横に振った。「同じ毒をその教師は持っていたそうです」
花が茫然としている横で、兵士はまだしゃべっている。「それにしてもどうやって持ち込んだんだか。城の出入りの商人はすべて登録して荷物もきびしく管理しているはずなんですが」
「昔からの出入りの商人が買収されたか、新規の商人じゃないかって今一緒に商人や買い付け係全員呼ばれて詮議されてるはずです。最近正規のルートではなく木の実などを売りに来ていた子どもがいたそうで、そいつらが毒を持ち込んだのではないかと。」
兵士たちの言葉がじわじわと頭にしみこんでくると、花は再び足元が揺らぐのを感じた。
あの子たち……
花が良かれと思って城の出入りにしてもらったあの兄弟。お兄ちゃんと弟だけになっちゃって必死に生きてたあの子たちが、もしかして?
いや、それはない。あんな小さな子たちが暗殺をするくらい孟徳を憎むことはないだろう。むしろ自分たちの土地を孟徳が守ってくれてると思っていたはずだ。
ということは、先生が利用したのだろうか?
花を介して知り合い、先生とあの子たちはかなり親しくなっていたはずだ。こっそり毒を、毒だと言わずに調達してきてくれないかと頼んだら……
「当然、持ってくるよね」
城のキレイな先生から頼まれたと、むしろ大張り切りで市場で手に入れもってくるはずだ。
だめだ、私、こんなところにいちゃだめだ!
あの子たちだけはなんとかしないと!
いてもたってもいられず、花は兵士の横をすり抜け走り出した。
孟徳に合わなければ。
あの子たちは毒の運び屋なんかじゃなくて、利用されただけで、許してあげてほしいとお願いしなくては!
「奥方様!お待ちください」「奥方様!」
花の足と兵士の足では当然ながら追いつかれてしまう。
「お待ちください!」今度は腕をつかんで止められた。「離してください!罰は私がうけるので、はなし…」いいかけた花の声は、回廊の角から走り出てきた大勢の男たちが口々に話し合っている声にかき消されてしまった。
何十人もの男たちが殺気だった様子で廊下を小走りで走っていく。
「まさか…!」「たいへんなことに」「武装してるのか?」「すぐに準備を…!」
といったきな臭い言葉が切れ切れに聞こえてくる。
花と、花を止めている兵士がそちらを見ていると、彼らが出てきたほうからさらに人数の多い集団がやってきた。
その中の一人の顔を見て、花は叫ぶ。
「孟徳さん!!」
「花ちゃん」
いつもは花を見ると破顔する孟徳の表情は、固いままだった。
「孟徳殿!」「急ぎませんと…!」という声に交じって「この娘が?」「毒殺に加担したのか?」「教師は自分ひとりがやったと言っていたが…」「わかるものか。かばっているということだってあり得る」と、花に厳しい目が向く。
その視線を遮るように、孟徳が一歩出て花を回廊の一部外側に張り出しているところに連れて行った。
「おい、孟徳…」元譲と文若が周りの者の目を気にするように少し離れてあとをついてくる。「少しだけ、少しだけ話をさせてくれ」孟徳が元譲にそういうと、元譲は渋い顔をしながらも後ろの大勢の文官と武官たちに軽く手を挙げて、先に行っているように促した。
ざわざわと人の波が移動していくのを横目に見て、孟徳が花に向き直った。後ろでは元譲が腕組みをして孟徳を待っている。
「聞いた?」
何を考えているのかわからない孟徳の表情。だが花はあの小さな兄弟の詮議の結果が知りたかった。
「はい、でもあの、あの子たちはそんな…」
言いかけた花を制して、孟徳はまっすぐに花の目を見る。「俺は君に聞かなくちゃいけないんだけど」
「君は俺に毒を飲ませようとした?」
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